提起家と解決家。タイ料理を食べながら@幡ヶ谷|2022/9/2 日記

「提起家と解決家。タイ料理を食べながら@幡ヶ谷|2022/9/2 日記」のアイキャッチ画像

09/02/2022

秋を感じる肌寒い朝7:30。

ここ最近、半袖は少し寒いかなと思うくらいには涼しくなってきた。

待ちに待った秋だ。

スマホのホーム画面の天気予報を見ると曇りマークの右上に小さく雨のマークが記されていたけど、ドアを開けたときに雨は降っていなかったので傘は持たずに出勤することにした。

 

駅を出た頃、

出口の向こうは霧がかったような雨が降っていた。

まあ、許容範囲だなと思いそのまま傘を手にすることなく歩くことに。

雨粒は冷たいし、来週にはきっと「夏が終わったな」なんて思いながら通勤するのだろう。

いつもの道

 

月初の仕事は忙しい。

月の切り替えで用意しなければならない資料だったり、色んな確認がある。

ただ、どれもこれも出社をしなくてもよい業務ばかり。

きっと僕だけじゃなく、同じ階にいる誰かも。ここまで厳しい思いをしてこのビルにたどり着いた満員電車の人たちもきっとそうだろう。

「この中でどれだけの人が在宅できる業務をわざわざ出社しているのだろう」とこの1週間ですごく考えるようになった。

 

 

17:30。

「出社しているのなら、タイ料理でも食べにいこう」

と誘いがきたので、就業後に幡ヶ谷でタイ料理を食べることになった。

幡ヶ谷駅のマクドナルドがある方の出口を出て、1,2分歩いて店に着いた。

タイ出身のお兄さんがお出迎え。

パイプスツールが4つ置かれた真っ黄色のテーブルに案内され、ジャスミンティとジャスミンハイ、パクチー餃子、カオマンガイ、レモングラスサラダ、ジャスミンライス、鶏肉炒めを注文した。

「実はさ、重大な報告があるんだ」

「ほう」

「大きく分けて4つくらいかな」

「ほうほう」

「まず、今月末に・・・」

と時間をかけて僕の今後について一通り話した。

「良いね!新しいことをしようとしていて、いいな」

ジャスミンティとジャスミンハイが届く。

乾杯。

「私も何か始めたいとはずっと思っていて。でも、自分でレールを作ることができない」

(うちの同居人も同じことで嘆いていた)

「ほう」

「勉強とか、進学とか、ある程度決まったことはできたし、仕事もこなせるけどそれ以上ができない。越せないの」

「うんうん」

「私の周りにはすごい人がたくさんいて、世の中の法則的にはそれに沿うように自分も成長できると思ってるんだけど。なんかな、、」

「正解は分からないけど、少なくとも僕には誰でもできることができなかったよ」

「ふーん」

「今の仕事はマニュアル通りにやれば絶対にできる仕事だし、要領が良ければ上手くもできる。でも、僕にはできなかった。だから前提としてレールに上手く乗ってできる、こなせることはすごいことだと僕は思うよ」

「そうなのかな」

「うん。僕は、レールを作っている意識はないけど常にやったことがないこと、夢中になれることやろうという意思はある。それに“ユニーク”であることも、そうありたいと思ってる人は好きだ」

かれこれ10年近くの仲になる友人とそんな話をした。

お互い社会人になってから真面目な話をする機会が増えた気がする。

あの田舎で、一緒に育った僕らは東京の地で真面目に社会人をやっていた。

 

スパイスMARKET 

 

帰りは幡ヶ谷から新宿までの2.5kmの道のりを歩いていこうと決め、ゆっくり散歩した。

「新宿の西側は初めて。なんか新鮮」

初めて東京に来た人みたいにキョロキョロしてビル群を見ながら、その道をゆく。

田舎もん気質は変わっていない。

「本当に涼しいね」

「うん、夏が終わってしまうのか。残念。」

楽しみな秋よ、もう少しだけ待ってほしい。

 

 

【大学生がなりたい職業】の上位に「コンサルタント」がラインクインするように、問題解決家が流行ってる。

さまざまなフレームワークを使って、リソースをかき集めて、圧倒的なエビデンスとプレゼンテーション能力で世の中の問題を解決するのが流行ってる。

でも、いま目の前にある問題は解決“しすぎて”、解決しようと大勢の人が集まり過ぎて、答えが溢れかえっているのではないかなと思う時がある。

「問題が溢れている」という言葉は意外にも嘘なのではないかと。

例えば「不便」という問題に対してそれを解決するための商品が開発され、100円ショップに行けばハサミだけで7〜10種類あるように溢れんばかりのモノが存在している。

モノが切れればいいのに。紙が入れればいいのに。

別角度でいえば、僕のようなミニマリストという生き方でモノ・コトをクリアにしようという生き方を考える皮肉まで登場してくる。

 

問題を解決しすぎたばかりに、問題が減っている。見えにくくなってる。

 

僕らの国は、戦後、五輪、そして震災など昔起きた出来事がトリガーとなって生まれた問題を解決しすぎたばかりに、今となっては答えの飽和状態。

それに伴って「今何が問題か」が盲目になってる気が。

学校や塾で生徒がよく言い出す、「何がわからないか、わからない」の状態?

レールは乗れるけど、レールの先は見えない。

レール上で何が起こっているのか、問題ありなのか、なしなのか。

逸脱してもよいか、悪いのか。やってみたら、問題なのか。がわからなくなってく。

だからこそ僕らがこれから社会に必要とされるためには「解決家」になるのではなく「提起家」になることがまず大切なのではないかなと感じ始めた。

「答え」の量<「問題」の量であった時代は今のようにこの国は進んでいけば良いと思いけど、この反対である場合、「答え」がそれを上回ってしまうとどうも進まない。

VUCA(変動性/不確実性/複雑性/曖昧性)の時代だからこそ、より一層そう思う。

もし、この考えが正しかったら、コンサルタントよりも発注者/研究者のほうが待遇がよい世界に変わるかも。

 

 

なんてことを考えた一日。

おつかれ金曜!おつかれ!みなさん。

 

09/02/2022

 

にほんブログ村 にほんブログ村へ